ある親子のピーピングライフ

中野区から西八王子に引っ越してきました

桜の路の下で ~私が想う春~

私は、20代のころは、忙殺の日々で、近所の桜さえもみにいく時間もなく、数える程度しか桜をみていない。

桜の下でブルーシートを敷いてお酒を飲む花見なんて・・・・
記憶にあるのは、3、4回くらい。
友達やボランティア仲間がメインで、家族や恋人となんて、、、、

 

30代に入ってからは、仕事の転換期、両親の入院、実家の引越し、私の一人暮らしスタート・・・などなど、生活が大きく変化した時期だった。

気が付けば両親も高齢になり、いままで毎日会っていた親が、月に1回のペースになり、いつのまにか、春を迎えるころに考えるのは、
あと何回、「3人家族」で春を迎えられるだろう・・・・

恐らく、両手で指折り数えて、あまるくらいだろう。


桜の咲く期間は「残された時間」の象徴なのだ。

 

たかがデートで「いつでも行ける」っていうけど

そんな先のこと、約束できないじゃん。
今回の約束でさえ守れていないのに。。。

 

 

私にとっての「約束」は無意味に近い。

「約束」に縛られて、傷ついてきた過去がある。

もちろん、誰にでもあることだろうけど、私にとっては、それがなかなか深い傷となって、今でも引きずるくらいだ。人をあてにしないというもっともな理由だと思う(苦笑)

 

 

桜の儚さは、人の都合を あざむくよう。
だからこそ、「今」と思ったら、その時を逃しちゃいけない。

 

 

昼前に、わびの電話がかかってくる。
以前、その電話にでなかったことに、逆切れされたこともあるので、しぶしぶでる。

 

「もう行かないし、約束はしたくない」と私は言う。けど、相手は悪びれもなく、言い返してくる。こうなったら、どっちかが折れないと、そもそもの関係に悪影響に発展しかねるので、ここは大人の対応をしなくてはいけない。

 

 

結局、お互いの予定を合わせると、次のデートは1週間後。

「その頃には、もう桜が散っているよ」と嫌味をいうのがせめての強がりだった。

 

 でも、本当は、花が咲いてても、散ってても、大事なことは、 

いっしょに過ごす時間なんだ。

 

 

いつか、ひとりぼっちになったとき
心のよろ処に、その思いでがあれば、きっと幸せだと思うから。